東京高等裁判所 昭和62年(行ケ)65号 判決
一 請求の原因一(特許庁における手続の経緯、本願発明の要旨及び審決の理由の要点)は当事者間に争いがない。
二 また、前記当事者間に争いのない本願発明の要旨に成立に争いのない甲第八号証(本願発明の公告公報)、第九号証(昭和五八年一二月五日付手続補正書)及び第一〇号証(昭和六一年二月六日付手続補正書)(本願明細書)を総合すれば、本願発明は、「ベースフイルムの上面に設けられた熱溶融性インキ層を前記ベースフイルムの下面から加熱ヘツドにより選択加熱すると共に、前記加熱ヘツドと前記ベースフイルムとを接触させたまま相対的に移動することによつて、前記熱溶融性インキ層を溶融して記録紙に転写して記録を行う」公知の感熱転写記録装置において用いられる感熱転写材(以下、「感熱転写材」というときはこのようなものを指す。)に関し、前記本願発明の要旨のとおりの構成からなるものであるが、その特徴は、ベースフイルムとその上面に設けられた熱溶融性インキ層からなる従来公知の感熱転写材において、そのベースフイルムの下面(加熱ヘツドとの摺接面)に、シリコーン樹脂、エポキシ樹脂、メラミン樹脂、フエノール樹脂、フツ素樹脂及びニトロセルロースよりなる群から選ばれた一種からなる耐熱性保護膜を形成した点に存することが認められる。
三 ところで、原告らは、取消事由として、審決が、第一ないし第四引用例を引用することにより、前記本願発明の特徴をなす耐熱性保護膜に関する構成をもつて容易に推考し得たと認定判断している点の誤りを主張するので、判断する。
1 本願発明における耐熱性保護膜形成の目的及び作用効果
前掲甲第八ないし第一〇号証によれば、前記公知の感熱転写記録装置において印字の高速化を図ろうとすると、加熱ヘツドへの電力の入力時間を短くし、その代りに単位時間当たりの入力電力を大きくして加熱ヘツドの表面温度を高めることにより熱溶融性インキ層が短時間で溶融するように構成する必要があるところ、その場合には、加熱ヘツドの温度がベースフイルムの融点を超え、ベースフイルム表面の被加熱部位が溶融し、該溶融部位を介してベースフイルムと加熱ヘツドとが融着又は固着することにより、ベースフイルムと加熱ヘツドとの間の摺接移動が妨げられる現象が生じ(以下、この現象を原告らの主張にしたがい「ステイツク現象」という。)、ひいて感熱転写材の走行に支障をもたらし、その結果、印字品質が著しく不良となつたり、甚だしい場合には印字不能を来たすという問題点があつたこと、本願発明の発明者は、感熱転写材のベースフイルムの下面(加熱ヘツドとの摺接面)に前記のような耐熱性保護膜を形成することにより、該感熱転写材を高速印字に供しても右ステイツク現象及びこれに基づく印字不良又は印字不能を防止できることを見出し、本願発明をするに至つたもので、現にかかる構成の採用により、所期の効果を得ているものであることが認められる。
2 第一引用例について
(一) 第一引用例には、審決認定(審決の理由の要点(4)イ(a))のとおり、基体シートの上面に熱昇華性染料を混入した樹脂による着色層を形成し、他面に金属蒸着層やシリコーン樹脂層の耐熱性層を設けた転写ホイルと、その耐熱性層の側から加熱刻印の型を押圧することにより、布地等の被転写体に感熱転写を行う方法が記載されていることについては当事者間に争いがなく、また、成立に争いのない甲第二号証(第一引用例である公開特許公報)によれば、同引用例中には、該転写ホイルの基体シートに耐熱性層を設けた目的及びそれによる作用効果について、「基体シートの他の片面全面にAIなどの金属蒸着層やシリコーン樹脂層などの耐熱性の層を形成すると、…刻印押しの際にかなりの熱をかけても…耐熱性は充分であり、特に基体シートがプラスチツクフイルムであつてもこのフイルムが熱により融けて刻印に付着することはなく、また、プラスチツクフイルムのブロツキングも防止でき、作業性が向上し、しかも高熱で刻印押しをすることは、刻印押しのスピードアツプをはかることとなる。」(四頁右上欄一五行ないし左下欄七行)との記載があることが認められる。
(二) しかして、第一引用例にいう転写ホイル、基体シート、着色層、耐熱性層、加熱刻印、布地等の被転写体が、それぞれ本願発明にいう「感熱転写材」、「ベースフイルム」、「熱溶融性インキ層」、「耐熱性保護膜」、「加熱ヘツド」、「記録紙」に対応するものであること、本願発明と第一引用例記載のものとが、ベースフイルムの片面に設けられた着色層をベースフイルムの他面から加熱体により加熱溶融して印像を被転写体に転写する点では転写原理を共通にするものであることは当事者間に争いがないところ、右争いのない事実並びに前記1及び2一で認定した事実によれば、本願発明及び第一引用例において、そのベースフイルム又は基体シートに耐熱性保護膜又は耐熱性層を形成した点の技術的意義は、直接的には、被告主張のように、両者とも、転写材の加熱体との接触面に耐熱性膜を形成することにより、仮にベースフイルムが溶融しても、溶融せずその形状を維持している耐熱性膜の介在により、加熱体とベースフイルムの直接接触を遮断して溶融物が加熱体に付着するのを防ぐ点に存することは明らかであり、その限りで、両者に共通性があることは否定できない。
(三) しかしながら、本願発明と第一引用例記載のものとの間には審決認定(審決の理由の要点(4)ハ(a))のとおりの相違点があること、本願発明が前提とする感熱転写記録装置と第一引用例が前提とする刻印押し(これがインパクトプリント方式であることは右相違点の認定において審決自体が前提とするところである。)との具体的な転写動作や加熱方式は、<1>前者における加熱ヘツドが感熱転写材との間で接触したまま相対的に移動するのに対し、後者における加熱刻印は転写ホイルに対し上下移動する点、<2>前者においては、転写中も加熱ヘツドと感熱転写材(ベースフイルム)とが圧接状態下で摺接移動するのに対し、後者の転写ホイルは、転写中すなわち加熱刻印が転写ホイルに押圧されている間は停止しており、転写終了後加熱刻印が上に移動している間に走行する点、<3>前者の加熱ヘツドは、入電後ごく短時間での所定温度への加熱と入電停止後ごく短時間での常温への復帰とを繰り返すのに対し、後者の加熱刻印は常に所定温度に加熱されている点で相違することも当事者間に争いがないところ、右のような両者の使用条件の差異、殊に転写材と加熱体との相対的な摺接移動(なかんづく圧接状態下での摺接移動)の差異によれば、第一引用例の刻印押し装置においては、他の現象はいざ知らず、少なくとも感熱転写記録装置における前記のようなステイツク現象は、そもそも生じ得ないものと認めざるを得ない。
(四) そして、前記当事者間に争いのない本願発明の要旨にみられるとおり、本願発明においても、単に「耐熱性保護膜」を設ける点を要旨とするものではなく、特許請求の範囲において具体的に特定されたシリコーン樹脂等の六種の樹脂から選択された一種からなる耐熱性保護膜を設ける点を要旨とするものであつて、本願発明においては、かかる具体的な構成により、その感熱転写材をベースフイルムが溶融せざるを得ないような高速印字に供した場合にもステイツク現象及びこれに基づく印字不良又は印字不能を惹起しないという所期の作用効果を得ているものであることは、前記1で認定したところからも明らかである。他方、第一引用例(前掲甲第二号証)には、前記認定のとおり、本願発明同様のシリコーン樹脂で耐熱性層を設ける点の記載はあつても、前記転写材の使用条件の差異からして当然のことながら、その選択理由が本願発明におけると同様のものであることを窺わしめるに足りる記載はない。
(五) そうであれば、たとい両者の耐熱性膜形成の技術的意義に前記のような共通性があり、また、仮に、被告主張のように本願発明におけるステイツク現象と第一引用例における転写ホイル(基体シート)の溶融物の加熱刻印への付着等の現象に類似性がみられるとしても、第一引用例記載の転写ホイルにおける構成を本願発明のような感熱転写材に適用した場合に、本願発明の最終的な目的であるステイツク現象及びこれに基づく印字不良又は印字不能の防止との関連で、果たしてどのような結果が得られるかは当業者といえども容易に予測し得るところではないといわざるを得ない。
この点は、成立に争いのない甲第一四、第一五号証によつて認める原告らの追試結果によつても、刻印押しによる実験では、転写材に耐熱性膜を設けても設けなくても印字結果等に何らの差異も認められず、他方、感熱転写記録装置を用いた実験では、耐熱性保護膜の形成に、耐熱性の樹脂であつても本願発明の限定範囲外であるポリビニルブチラール樹脂を用いた場合には、右限定範囲内のシリコーン樹脂及びニトロセルロースを用いた場合のようにステイツク現象及び印字不良、印字不能の発生を防止できないという実験結果が得られていることからも窺われるところである。もとより、右実験結果は単一の条件下に得られたものではあるが、他に格別の反証のない本件においては、単に耐熱性の保護膜を設ける点の構成のみでは必ずしも本願発明の所期の作用効果を得ることができないことを窺うことができる。また、被告は、原告が右追試結果に基づき耐熱性一般とステイツク現象の防止との間には必ずしも相関はないと述べた点を捉えて、本訴に至つてこのような主張をすることは許されない旨主張しているが、右はもとより新たな作用効果に関するものではなく、また本願明細書に記載された保護膜を耐熱性にする点と作用効果との関係を否定するものでもないから、この点に関する被告の主張は採用の限りでない。
(六) なお、被告は、第一引用例は、その転写ホイルがインパクトプリント方式のみでなく本願発明及び第一引用例に係る発明の出願前周知のロール方式によつても使用されることを前提としている旨主張するが、審決の記載(審決の理由の要点(4)イ、ハ)に徴すれば、審決自体、第一引用例記載の転写ホイルをインパクトプリント方式で用いられるものと認定しこれを前提として爾後の認定判断をなしていることは明らかであるうえ、本件においては、被告のいうロール方式なるものが具体的にどのようなものであるかについて、僅かに成立に争いのない乙第三号証及び第六号証の一ないし三により、ロールと箔及びこれと重ね合された被転写体とが同一方向に移動、回転することによつて転写がなされるという概要を知り得るのみであつて(他にこの点に関する証拠はない。)、これによつては感熱転写材とロール方式の下での転写ホイルの使用条件の差異を正確に知ることはできない以上、被告主張の点を前提に判断することはできない。もつとも、被告のいうロール方式でも、そのロールないし加熱刻印と転写材及び被転写体は同一速度で移動しその間に相対的移動は生じていない筈であつて(けだし、原告ら主張のとおり、もしこれらの間に相対的速度が生じれば所期の印像が形成される筈がないからである。)、少なくとも加熱体と転写材との相対的な摺接移動の有無という最も重要な点でインパクトプリント方式と何ら変りがないものと考えられるのである。
3 第二ないし第四引用例について
(一) 耐熱性保護膜を持たない従来の感熱転写材において、そのベースフイルムの条件として熱伝導率が高い点に合せて耐熱性に富むことが必要であることが当業者に周知の事項であつたこと、第二ないし第四引用例にもその旨の文言があること(審決の理由の要点(4)ロ(a)、(b))は当事者間に争いがなく、また、成立に争いのない甲第三号証(第二引用例である公開特許公報)、第四号証(第三引用例である公開特許公報)、第五号証(第四引用例である公開特許公報)によれば、感熱転写記録装置用の感熱転写材のベースフイルムの耐熱性に関し、それぞれ、「テープまたはフイルムなどの基体2としては、機械的強度、耐熱性があり、薄くて熱伝導率の高いものが適しているが、これには、ポリエステル、ポリイミド、テフロン、ポリカーボネートなどの樹脂あるいはこれらを金属細線や箔などで補強したものが使われている。」(甲第三号証二頁右上欄一行ないし七行)、「基材(1)は、適当な耐熱強度を有するものであればその材質について何ら特別な制限がなく、たとえば普通紙、合成紙、ラミネート紙などの紙類、あるいはポリエチレン、ポリスチレン、ポリプロピレンなどの樹脂フイルム類がいずれも好適に使用される。」(甲第四号証二頁右上欄七行ないし一二行)、「支持体3としては、紙あるいはポリカーボネート、ポリイミド、テフロン等の樹脂フイルムなどが用いられる。この樹脂フイルムは熱伝導率が大きく、耐熱性に富んでいることが条件であるが、…」(甲第五号証二頁左下欄一七行ないし右下欄三行)との記載のあることが認められる。
(二) しかして、被告は、右各記載をもつて、感熱転写材のベースフイルムを耐熱性樹脂で形成することにより感熱転写記録装置におけるステイツク現象を防止する点を示唆しているものである旨主張するが、第一ないし第四引用例である右各証拠中には右摘示した記載以外に感熱転写材のベースフイルムの耐熱性に関する記載はなく、もとよりステイツク現象に関する記載も全く見出せない。また、被告は、成立に争いのない乙第五号証等を根拠にステイツク現象自体は右各引用例に係る発明の出願前から知られた現象にすぎないとも主張するが、仮にその点が認められるとしても、前記認定のような記載のみから、ステイツク現象及びこれに基づく印字不良又は印字不能を防止することを意図し、その解決手段を示唆したものということができないことは明らかである。
(三) また、右のとおり、これらの記載はベースフイルム自体に耐熱性を持たせるもので、その意味でベースフイルムの溶融を避けようとするものであるのに対し、本願発明はベースフイルムが溶融した場合に生ずるステイツク現象及びこれに基づく印字不良又は印字不能をベースフイルムに耐熱性保護膜を設けることで防止しようとするものであるから、両者の解決手段が全く異なることは明らかであり、仮に第二ないし第四引用例記載の樹脂のうち耐熱性の高いものでベースフイルムを形成した場合にたまたま本願発明と同様ステイツク現象を避け得たとしても、そのことと本願発明とは全く関係がないことはいうまでもない。
4 そうであれば、第一ないし第四引用例記載の事項を組合せたとしても、本願発明における耐熱性保護膜の形成に関する構成を容易に推考し得たとすることはできず、この点に関する審決の認定判断は誤りであるというほかない。
四 そして、この点の誤りが審決の結論に影響を及ぼすことは明らかであるから、原告らの本訴請求を正当として認容する。
〔編注〕本願発明の要旨は左のとおりである。
ベースフイルムの上面に設けられた熱溶融性インキ層を前記ベースフイルムの下面から加熱ヘッドにより選択加熱すると共に、前記加熱ヘッドと前記ベースフイルムとを接触させたまま相対的に移動することによつて、前記熱溶融性インキ層を溶融して記録紙に転写して記録を行う感熱転写記録装置に用いる感熱転写材において、前記ベースフイルムの下面にシリコーン樹脂、エポキシ樹脂、メラミン樹脂、フエノール樹脂、フツ素樹脂及びニトロセルロースよりなる群から選ばれた一種からなる耐熱性保護膜を設けたことを特徴とする感熱転写材